受け継ぐものたち 冒頭より

 新幹線が速度を落としながらホームに滑り込んでいく。
 日馬未貴は、停車した新幹線の座席から、ゆっくりと立ち上がった。ちらりと窓に目を向けると、栗毛のボブに茶色の目をした不機嫌そうな顔が見え、顔をそらす。
 周りでは乗客がそれぞれ下車する準備をしている。その喧噪に包まれながら、未貴はボストンバッグを片手に、ドアへと向かった。駅のホームに掲げられている看板には、彼女も話でしか聞いたことのない駅名が掲げられている。
 初めて降り立った駅のホームは、同じ国であるようなのに、異国のような感覚を覚えた。かおりが違うからだろうか。そんなことを考えながらも改札を通り抜け、あちこちを見回す。予定ならば、ここに未貴をむかえに来てくれる人がいるはずなのだ。
 不安に駆られながらも、きょろきょろと見回していると、ひとつのスケッチブックが目に入った。そこには未貴の名前が書かれていた。
「……あの、中村さんですか?」
「ええ、あ、もしかして日馬さんかしら?」
「ええ」
 年の頃は四十程だろうか。短い栗毛の髪に、小さいくりりとした目が少女のようにも見える。困ったような表情であちこちを見回していた女性は、未貴だと分かると、途端にほっと安堵した表情を浮かべた。
「お世話になります」
「いえいえ、本当に手伝いに来てくれる人がいて助かるわ。あら、こうして見ると、本当にお母さんにそっくりね」
 彼女、中村明日香は目を細めて未貴へ視線を向けてきた。そう言われることはよくあるのだが、毎回言われる度にどこかそわそわしてしまう。
「確かに、母親にはよく似ていると言われます」
「ふふ、でしょう? さて、いきましょうか」
 明日香はスケッチブックをしまうと、すぐに未貴へと背を向けた。
 その背を向けた彼女の後ろ姿が、一瞬着物をまとい、さらに腰のあたりにゆらりと猫のしっぽのようなものが見えたように感じて、未貴は思わず目をこすってしまう。
 目をこすった先にいた彼女は、薄紫のカットソーにジーンズ、そして灰色のカーディガンの格好だ。
 今のは何だったのだろうと首を傾げるが、ぼんやりしているうちに、彼女との距離が離れてしまった。
 未貴は慌てて明日香の後を追いかけ始めた。

 *

 春の陽気が感じられる頃、未貴は大学を卒業してから三年間勤めていた会社を辞めた。
 ほんの少しだけ、そう、一、二週間はぼんやりしてから次の仕事を探そうとしていたのだが、そんな未貴に母が突然話を持ちかけてきたのだ。
 それは名前だけは有名な、自宅からずっと離れた地域の小さな村での、お手伝いの仕事だった。何でも、春先が一番忙しい中なのだが、お手伝いさんが病気で入院してしまったとかで、人手不足らしい。
 普段ならそういう話をすすめられても絶対に行かないと言っていたのだが、なぜだか今回は惹かれるものがあって、この土地に来てしまったのである。
 仕事を辞めたからか、それともこの村が気になったからか、それは未貴にも分からないことだ。もしかしたら、ここで働いているうちにわかってくることかもしれない。むりやり考えをまとめて、この地までやってきたのだった。
 未貴達が駅を出てからは、バスに乗って目的地を目指していた。駅前はオフィスなどが集まっているのか、ビルなど近代的な建物が建ち並んでいる。
 だがそれも、駅から離れていくうちに少なくなり、かわりに田んぼや、そして田んぼの奥に広がる山と自然が多くなってくる。
「あ、ここね」
 明日香がバスについているブザーボタンを押した。少しだけ会話でざわめいているバスの中に、その音は大きく響く。
 バス停の名前を告げられると、バス内の乗客が何人か立ち上がった。未貴達も一緒に立ち上がる。背の高い階段を一歩一歩、踏みしめるようにしておりていった。
「うわあ……」
 バスを降りた向こうにある光景は、映像でしか見たことのない、どこか懐かしさあふれるものだった。
 まだ田植えが始まったばかりなのか、土色が多く残っている田んぼに、奥には緑あふれる山。ちらちらと田の隙間に残っているのは、茅葺き屋根の大きな屋敷だ。
 さらに田んぼと屋敷の横には、柵で囲まれた公園が見えた。背の高い木々の隙間から、美しいと言われる庭園の姿が垣間見える。これが有名な庭園の姿か。
 美しい集落にみとれながらも、未貴はさきを歩いていく明日香の背中を追いかけた。二人は車一台が通れるほどの道を歩いていく。道の左右に広がる光景は田んぼ、そして茅葺き屋根の大きな家がぽつぽつと建っているものだ。
 同じ道をゆく観光客は大きな荷物をかかえている人、軽装の人などさまざまだ。
 ゆるやかな坂になっている道を中ほどまでのぼったところで、明日香はすぐに道を右にまがった。舗装されていない砂利道をすこし歩くと、大きな茅葺き屋根の家にたどりつく。
「さ、ここが森瀬家よ」
 明日香は屋敷の手前で立ち止まると、くるりとふりかえった。さわやかな笑顔をうかべている。
「ようこそ、森瀬家へ」
 未貴はそうして、森瀬家へと迎えられたのだった。

 *

 入り口の引き戸を開けると、大きな玄関が広がっていた。ほかに客はいないらしい。
「さ、まずはお部屋の案内をするわね。そうしたら家の当主を紹介するわ」
 明日香はてきぱきと未貴に部屋を案内する。屋敷は大きかった。いくつかの建物が細い廊下で繋がっているようなのだ。
 廊下を渡った先の、小さな和室へと案内された。向かい側についている窓からは、この辺りの集落を見回すことができる。音のない静かな部屋で、すごしやすそうだった。
「うちは今、旅館はしていないからね。昔は少しだけ泊めていたこともあるけれど」
「そうなんですか」
「そう。まあ特別な人だけ、泊まることができる感じね」
 二人はまた廊下を戻っていく。どこかの部屋に向かうのかと思ったが、未貴の予想は外れて、明日香は玄関へと向かっていた。どこにいくのだろう。
 明日香は外へと出ると、砂利道を歩いていく。少し行くと石のブロックがつまれた小屋のようなものがあった。そばに、若い男性がしゃがみ込んでいる。なにかを見ているのだろうか。
「当主」
 明日香が呼びかけると、ゆっくりと男性の面がこちらを向く。切れ長の目は、どこか冴え冴えとした印象をも感じさせるようだ。少し長めの黒い前髪が揺れた。
 明日香に呼ばれた男性は、すぐにぱっと笑顔を浮かべた。裏がいっさい無さそうな笑みは、見ているこちらをも明るくさせる気がする。
「こちら、新しく入られる日馬さんがいらしたので」
「そうですか」
 男はさっと手についていた泥を落とすと、穏やかな笑みのまま、ひとつお辞儀をした。
「はじめまして。当主の森瀬霧雅と申します」
「日馬未貴と申します。色々とご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
 未貴は当主と聞いたとき、これだけの大きな屋敷であるから、威厳のある父のような人物であるのだろう、そう思っていた。
 だが、実際に会ってみた人物は、思っていたより、ずっと若いことに驚く。もしかしたら、未貴とそんなに変わらないのでは無いだろうか。驚きながらも、反射のように挨拶を口にする。
「家の仕事はどういうのか知ってる?」
「少しだけ、母から聞きました。後は中村さんからも」
「そうですか。じゃあ僕から説明することはほとんどないでしょうね。今日、夕食の席でささやかな歓迎会をさせて頂きたいと思いますので、是非いらしてください」
「本当ですか? ありがとうございます」
「それじゃ、あとは明日香さんにお願いしようかな。時間があるようだったら、これから田んぼに水を入れようと思うので、見ていくかい?」
 そう聞かれた未貴は、ぜひ見たいと思い、ひとつ頷いた。
「よし、やるか」
 霧雅は小屋へと入り、何か作業をしているようだった。しばらく待っていると小屋の中からにぶい機械音が作動し始める。
 音が鳴ってからしばらくすると、小屋についているパイプから、勢いよく水があふれ始めた。その水は、少しずつ水路を流れていく。
 水はいきおいを増し、水路の水量が上がってきた。小屋から出てきた霧雅は、水路へと再びしゃがみ込んでその様子を眺めているようである。
「もうすぐ田植えが始まるからね。最初は田植え体験からだし、忙しくなるね」
 霧雅は、誰にともなく告げるようにそう言った。
 その間にも、鈍い機械音は続いている。そして、水の流れる音も。


 *


 その夜、霧雅の言葉通りにささやかな宴会が開かれた。この家では、夜の食事は、この家の者達が皆そろって食べるものらしい。
 未貴が案内されて向かうと、大きなテーブルが和室の真ん中にひとつ置かれていた。テーブルを囲むように、鶯色の座布団がいくつかならんでいる。座布団の半分ほどは埋まっていた。
「席は決まっているのでしょうか」
 未貴はどこに座っていいかなど分からず、すでに座っていた男性にそっと問いかけてみることにした。一見すると怖い表情を浮かべていた男性は、すぐに笑みを浮かべる。
「いや。特に決まっていないよ。あ、でもせっかくの歓迎会なんだから、もっと目立つ席に座らないと!」
「あ、いや、私なんかは端の方で大丈夫ですから!」
 男性は、勢いよく未貴をテーブルの真ん中に引っ張ってこようとする。それはごめんだったので、何とか隅の席に座ろうと奮闘することになった。
 なんとか隅の席を確保したところで、明日香が入ってきた。椀ものをお盆にのせて持ってきている。
「私も手伝います」
「あら、今日は良いのよ。せっかくの歓迎会なんだから。ほら座ってて」
 働くために来たのに申し訳ないと、手伝うつもりでいたのだが、明日香にぐいと強い力で肩を押されて、また座布団の上に座り直した。
 明日香は未貴が恐縮している間にも、どんどん料理を運んでくる。お吸い物、そして大皿がいくつか。大皿には唐揚げが盛られている皿や、里芋といくつか野菜を煮たものなどがあった。どれもできたばかりのようで、あたたかな湯気を上げている。
 その間にも、ひと仕事終えてきたらしい屋敷の人達が、部屋へ集まってきていた。未貴がひとりひとりに挨拶をしていると、また台所へ消えた明日香が戻ってくる。
 最後に霧雅も入ってきた。彼はいつもの定位置なのか、皆が近寄ろうとしなかった一番奥の席へと腰を下ろす。そしてゆっくりとまわりを見回した。
「さて、そろったかな」
 霧雅が声を掛けた時には、テーブルの周りにはかなりの人が集まっていた。屋敷にいた時はそこまで人がいる気配がなかったので、驚いてしまう。
 霧雅が乾杯の音頭をとって、和やかに宴席は始まった。
「いつもご飯は皆さん揃って食べられるのですか?」
「ええ。夕食だけね。朝食と昼食は隣の部屋にテーブルがあるから、そこで時間がある時に各自で食べる感じよ」
 仕事内容は簡単に明日香から聞いていた。この時期は主に観光客向けに田植え体験、そして本格的に田植えをする者、また庭園の保守管理だ。皆がばらけて仕事をしているのであれば、自ずとそれぞれが動く時間も変わってくるのだろう。
「そうなんですね」
「未貴さんは、ここに来る前はどんな仕事を?」
 霧雅は唐揚げを皿に取り分けながら、そう問いかけてくる。母は、娘が仕事をやめたことは話しているようなのだが、どんな仕事をしていたかは話していないらしい。話していないというよりは、母も未貴の仕事内容はよく分からない、というのが正しいのだろう。
「営業事務の仕事ですね」
「営業事務、ねえ……?」
 明日香や、未貴の斜め前に座っている男性は、未貴の言葉から仕事を連想できないようで、首を傾げている。未貴はここに来てからの緊張と高揚でどこかふわふわした思考のまま、必死に言葉を探した。
「まあ、営業の補佐をしたり、販売する商品の見積もりだしたり、とかでしょうか」
「なるほどね……」
 みんなそれぞれ、納得したような、理解できていないような、曖昧な反応だ。
 男の人はビールを手に、からからと笑っている。
「まあ俺達の生活なんてさ、昔であることが仕事のようなもんだから、そういった人が来るのは珍しいもんよ」
 たしかに、未貴もここに来て気が付いたことだ。
 電車の通らない、山に近い村。車が通ることができるか分からない細道。茅葺き屋根の家。この地は古くあることが観光として成り立っているのだろう。
「まあそうでしょうね」
 霧雅も苦笑しながら、里芋の煮物を口に運んでいる。彼はまだ若いが、ずっとこの集落で生活しているのだろうか。少し気になったが、何となく聞けないまま、味噌汁と一緒にその疑問も口にのみこんでいた。
「日馬さんはおいくつでしたっけ?」
「えっと、二十五です」
「そっか。俺の三つ下か」
 霧雅は納得したかのように、ひとつ頷いた。周りの人達が、霧雅以上の反応を見せる。
「わっかいねー」
「良いわねぇ。彼氏はいるの?」
「いえ、」
 よくある質問だ。未貴は思わず苦笑して、首を横に振ろうとした、その時の事だった。
 未貴の後ろにある襖の向こうから、急に大きな人の声がしたのだ。なにかと思った時に、がたりがたりと襖が揺れる。
「ん、何?」
 まだ屋敷には人がいたのか。未貴が驚く隣で、明日香が息を呑むのが分かった。
 何が起きたのだろう。そう思った時に、襖がさらに揺れた。誰かが襖にぶつかっているらしい。そのぶつかってきた重さに耐えきれず、襖がぐらりと揺らいで、倒れてきた。
「わっ」
 突然の事態に、未貴は慌てて座布団から飛び退いた。向かいに座っていた男は素早く立ち上がり、襖を支える。
「私は……、……であり、……なのだから」
 襖という壁が無くなったことで、襖の向こうからもはっきりと声が聞こえてきた。女性が何か発狂するように叫んでいる。そのため、何を話しているかは聞き取れないのだ。
 男が襖を支えている横で、ころりと女性が転がってきた。畳に頭をぶつけるのではないかとひやりとしたが、彼女はうまく着地したようだ。
 誰なのだろう。その女性は声からして、若そうな印象があった。薄い桜色の着物を身にまとっている。頭には、薄い白い布のようなものをかぶっているので、よく顔の表情が伺えないのだ。
 襖の向こうは薄暗がりでよく見えないが、誰か男が近寄ってくるようである。
「享」
 向かってくる男にか、立ち上がって近付いていた霧雅が声を掛けた。男は襖の近くまで寄ってくると、頭を下げる。刈り込まれた髪型に鋭い目と、実直そうな印象をうけた。
「すみません。急に下ろしたものが暴れてしまいまして」
「そうか」
 霧雅はひとつ頷くと、何事かを女性に向けて囁いた。しばらく女性は暴れるかのような動きをしていたが、少しずつ大人しくなっていく。そうして、ようやく乱入してきた女性が大人しくなったところで、彼女がかぶっていた布が、はらりと床に落ちる。
「えっ」
 はらりと落ちた布の向こうに見えたものに、頭の中が驚きで真っ白になった。
 彼女は艶やかな長い黒髪であった。だが、顔や肌の色が氷のような水色なのだ。
 彼女は伏せた目をそっと開けてこちらを見た。どこかぼんやりとした表情だ。
「ここは」
「居間だよ」
 霧雅の言葉に、彼女はぼんやりとしたまなざしのまま、ああ、とぽつりと呟いた。明日香がテーブルの上から湯呑みを取ってお茶を入れ、女性のところまで持って行く。
「はい、これで少し落ち着いて」
「ありがとう」
 弱々しい声で彼女は答え、ゆっくりとその湯呑みを傾けた。お茶を飲むことによって少しは落ち着いたらしい。ごめんなさい、と彼女は小さく謝ってくる。
「せっかくの場に水を差すようなことをして。それに、まだ話すかどうかも決めていなかったんじゃない?」
「そうだけど、こうなった以上仕方ないわよ」
 明日香は小さく首をすくめた。
「どういうことだ!」
 今度は襖の向こうから、男の怒声が響いてきた。さらに足音が近づいてくる。足音に反応して、霧雅がすっと立ち上がった。
 暗がりから次に姿を見せたのは、若い男だった。表情からも怒りをため込んでいるように見える。
「何が市子だ! ただ暴れているだけじゃないか!」
「まあまあ、お客様」
 霧雅が滑るように男の下へと歩いていく。変わらない微笑みを浮かべているはずなのに、不思議なほど威圧感が感じられた。
 霧雅に気圧されたのか、息をのんだ男の肩に手をかけて、二人は襖の向こうへと消えていく。
「きちんと説明しろ! これじゃあ、でたらめと言われてもおかしくないぞ!」
「ええ……、これから説明します」
 しばらくは男の怒声も聞こえていたが、それも少しすると聞こえてなくなった。
 部屋の中がしんとしずまりかえる。だがそれも長くは続かず、すぐに霧雅が戻ってきた。
「お待たせ」
「お客さんは、どうしたの?」
「今日のところはひとまず戻ってもらうよ。どっちにしろ、今日は無理だし」
「そうね」
 霧雅はどこか不安そうな彼女を安心させるためか小さく笑うと、ゆっくりと腰を下ろした。
「驚かしてごめんなさい」
「いえ」
 驚くには驚いたが、なんだか目の前にいる彼女があまりにも非現実的な存在で、驚いているのか分からない、というのが正直なところだ。
「うちの仕事はいくつかあるけれど、一般には公にしていない仕事がひとつあってね。彼女、巴がしていたのはそれなんだ」
「仕事、ですか」
「ああ。その仕事に正式な名前は無いけれど。僕達はそれを市子と呼んでいる」
「市子?」
「ああ。まあ昔は結構あった仕事らしけどね。今はイタコと言った方が伝わるだろうね」
 霧雅はそう告げて、くすりと笑った。イタコ。その言葉は未貴もおぼえがあった。確か、霊を呼び寄せて対話をしたりする仕事ではなかっただろうか。
 そういった解釈を霧雅に話すと、まあ大体合っている、と彼は頷いた。
「うちの場合は占いもしているから、だから市子って呼んでいるのだけどね。この仕事の話は、お客さんとかにはしないようにね」
「はい」
「せっかくだから、そのうち日馬さんも何かみてもらう?」
「みてもらう?」
「そう。何でも大丈夫だよ。うちは、政界の人とか、企業の重役さんとかも頼りにくるんだ」
 占ってもらうこと。そのことを考えて、真っ先に浮かんだのが、これからの仕事について、だった。今度はどんな仕事に就けるのだろう、そもそも仕事なんて見つかるのだろうか。本当に私は何をしたいのだろうか。
「やめときます」
「そう?」
 色々浮かんできたが、正直なところ、まずその事に自分が向き合えるか自信が無くなってきた。
 思わず苦笑した未貴に、ふと霧雅が真剣なまなざしを向けてきた。
「そうそう。見てしまったからには日馬さんにはやってもらわなければならない重大な仕事がある」
「仕事、ですか」
 話を完全にのみこめない未貴は、ただ言葉をくりかえすだけだ。そんな前で、霧雅は氷のような肌をした巴にちらりと目を向け、微笑んだ。
「この村には、妖怪が住んでいる。これは、この村以外の誰にも、言ってはいけない、という仕事がね」
 霧雅の笑みは、どこまでも冷たい。背筋が寒くなったように感じられたのは、気のせいなのだろうか。
 どこからか振り子時計の鐘の音が、聞こえてくる。
(後略)

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