モラトリアム・タイムスリップ 冒頭より


一、

「嫌です」
「即答だねっ?」
 研究室に、今間(こんま)のよくとおる声が響いた。
 今間知記(こんまともき)は、自身が所属している守岡研究室の教授の前に立っていた。研究室の主、守岡教授は、パソコンのデュアルディスプレイの向こう側で困ったように眉をひそめている。
「そりゃあ、誰だって断りますよ。折竹(おりたけ)みたいな天才のくせに生活能力皆無なやつと組んだら身がもたないです」
「それ、ほめてるのかけなしてるのかどっちかな……」
 今間が反対すると、横から、頼りない声が聞こえてきた。ちらりと視線を向けると、作業用の大きな机の片隅、突っ伏すようにして座り込んでいる男の姿がある。突っ伏しているので、今間からはさらさらと嘆くたびに揺れる黒髪しか見えない。
 男、折竹章吾(おりたけしょうご)は、研究室の壁にある本棚の本をテーブルに広げているようだった。今間の言葉にショックを受けたのか、手にしていたらしいシャープペンシルが机に転がっている。
「ほめてる」
「即答だね?」
 今間の言葉に、折竹はがくりと首を落とした。そのまま起きない姿にいささかのあわれみが浮かぶが、嫌なものは嫌なのだ。仕方がない。
「まあ、今間の気持ちもわかるがな。今日も就活帰りであることも、就活で忙しいことも知っているし。だが残念なことに……君の相手はもう折竹しかいないんだよ……」
「ええええええ」
「という訳で、よろしくね!」
 教授はにっこりと笑みを浮かべながら、今間に用紙を押しつけてきた。そしてそのまま立ち上がると、これから六限だからと颯爽と断りをつけ、部屋を出ていってしまう。
 あとに残されたのは、プリントを手にした今間と、うなだれたままの折竹だけだ。
 研究室は教室の三分の一ほどの狭さで、壁は一面の本で埋められている。折竹がうなだれているテーブルは八人ほど座れるだろうか。木工用の作業を行うための無骨なテーブルは、四年生の作った模型が真ん中に置かれていた。そしてテーブルの端には、誰かが持ってきたらしい炊飯器が置かれている。炊飯器には、疲れた今間の顔が映り込んでいた。遊び人と評される甘い目元も、くたびれているようだ。柔らかな髪は、就職活動のため、かっちりと固められている。
 折竹はうなだれたまま、ぴくりとも動かない。沈黙がなんとも気まずかった。
 だが沈黙を作ったのは今間であった。ここは今間がなんとかするしかないだろう。今間は折竹の向かいに腰掛ける。テーブルに広げられていた本を引き寄せていた。
「何……近代建築について?」
「そう。次のゼミから、各自復元された、もしくはリノベーションされた建築について調べたうえ、もし自分たちがリノベーションするならを考えてこいっていう課題だから……明治、大正あたりの近代建築から攻めてみたらどうかなと思って」
「ふぅん……」
 リノベーション――既存の建物に大規模な改修を行い、今よりも良いものにする。また刷新してより良い建物にしたりすることだ。守岡研究室では、リノベーションや復元を主とした研究を行っている。
 今間が引き寄せた本は、有名な建築家のもので、近代建築の授業では教科書として使われることも多いものだ。守岡研究室では近代建築について学ぶことも多く、中身はそれとなく頭にはいっている。
「なんか、意外だな」
「意外?」
 今間は、本を閉じた。テーブルのうえに広げている本のとなりに、そっと戻す。
「復元、リノベーションだったら時代は問わないんだろ?」
「うん」
「折竹だったら、もっと最近のものをやると思ってた。ほら、あのリゾートホテルとか?」
 脳裏に、京都でオープンしたばかりの、有名なリゾートホテルを運営する会社が手がけたホテルが思い浮かぶ。
 折竹の作るものや嗜好からすると、もっと最先端のデザインを追いかける気がしてならないのだ。
 折竹は、天才だから。
「あー……、おもしろいとは思うしやってみたいとも思うんだけど……なんか、こう……、こう?」
「こう?」
 折竹は言葉にあらわせなかったらしい。両手であれこれなにか動かしているようだが、今間には理解できない。ひょろりとした頼りなげな見た目が、いっそう頼りなく見える。
「うーん、難しいな」
 ついに折竹は、説明を放棄した。
 困ったように眉を下げると、もともとの頼りなげな容貌が、儚げにも感じられる。
「悪い、折竹の言葉が難しいわ」
「えへへ、そうだよね。ごめんね」
 へらへらと苦笑いを浮かべながら頭をかく折竹を見ると、少しばかり罪悪感が浮かんでいた。罪悪感というよりも、庇護欲に近いものかもしれない。
「まあ、なにか理由があるってことはわかったから、それでいいわ」
「へへ……、あ、今間はもしかしてそういう系で攻めたかった?」
「いや? 俺も近代建築がいい」
 慌てたようにたずねてくる折竹に、今間はゆるりと首をふって否定してみせた。とたんに安堵した顔をみせた折竹に、嬉しいような、申し訳ないような気持ちになる。
 各自復元された、またはリノベーションされた建物について調べる課題であれば、まわりは最近の建築家が手がけたリノベーションをこぞって調べるだろう。そことは一線を画しておきたい。そんな気持ちと、もうひとつの理由があった。
 それは、折竹が見ているものを見てみたいという気持ちだ。
 折竹は、ここ建築デザイン科において、天才と思われる存在だ。今間は、彼が天才だと思った瞬間をはっきりと覚えている。
 それは、二年生のとき。設計製図の合同講評会で見た彼の作品だった。折竹とは履修していたクラスが違ったので、彼の作品を見たのは合同講評会がはじめてだった。課題はコーポラティブハウス。協同組合方式による、集合住宅を設計するというものだ。
 彼が提出してきた作品に圧倒された。美しいとか、緻密な、とかそれだけで表せる作品ではない。たしかに彼が書いてきた図面は細かく書き込まれていたし、模型も作り込まれていた。
 だが圧倒されたのはそこではなかった。
 圧倒されたのは、コンセプトからだった。考え方が根本から違うのだ。
 折竹を知ると、コンセプトは後付けのもので、建物の形から入っていったのだと今ならわかる。だがあのときは分からなかった。
 コンセプトと設計がうまく絡み合った、見事な作品。辛口な教授陣も、皆がこぞって折竹をほめていたのだ。
 あのとき、今間は自分が適当に思いついて作ったものが、陳腐なものに思えて仕方がなかったのだ。あのときの愕然とした思いを、未だ覚えている。
 天才は考え方が違う。あのとき、はっきりと思い知らされた瞬間だった。

  • 戻る
  • ページのトップへ戻る