忘却のブルー 冒頭より


 夏空を泳ぐさかな。
 記憶に残っているのは、ただ、それだけだった。

 かすかに潮のにおいが漂ってくる。半袖のシャツから伸びた腕をなでるのは、なまぬるい風だ。
 ごく近くに海があることを感じさせながらも、目の前に広がるのはコンクリートの塀であった。ちょうど腰ぐらいの高さの、つるつるとした塀だ。
「おい、……おい、千仁」
 聞こえてくるのは波の音ではなく、あきれたような青年の声である。それも、ごく近くから聞こえてくる。いや、背中から聞こえてくる。
「聞いてんのか?」
 青年は何度も呼びかけてきていた。それをずっと無視していたので、次第に背中からの声は大きくなってくる。
 声があまりに大きく、我慢できなくなった千仁は、後ろへと振りかえった。
「ちょっと、大きい声あげないでよ」
 野内千仁はコンクリートの塀に隠れるように、しゃがみこんでいた。
 千仁のすぐ後ろ、律儀にしゃがみこんでいる少年――大迫政志は、色素の薄い瞳を苛立ちに染めている。茶の混ざった髪が、そよりと潮風に揺れていた。
「大きい声だすなって、いつまで隠れるつもりだよ。いつかは先生達に気がついてもらわなきゃいけないだろ」
「そうだけど、こう、怒られないタイミングを見てるの」
 政志はあきれた声音ながらも、声をひそめてくれていた。政志の言っていることはもっともなのだが、世の中、そんな簡単にいくことなどないのだ。
 千仁はコンクリートの塀へと向き直ると、そうっと顔だけを塀から出した。
 背の低い塀の向こうには、何台か車を停めることのできるスペースがあり、そして奥には、白と水色の建物があった。屋根が平らな四角い建物で、白の壁に、屋根にあたる部分には水色の線が引かれている。
 千仁がへばりついている塀には、看板が掲げられていた。そこには笠川大学付属高等学校学寮と書かれている。ここは、千仁たちが通っている高校の学寮、宿泊することができる研修施設だ。
 学寮の前には、ふたりの男が立っていた。千仁にとっては見慣れた背中である。
 ちょうど入り口の前に立ち、学寮を見上げて話し合っているようだった。
 ここまで、運よくこっそりとふたりを追ってくることができた。だが、いつまでも潜んでいる訳にはいかない。これからはふたりと話さなければならないのだ。ひとり――白いシャツを着た男は許してくれそうだが、もうひとりは難しそうだった。
「怒られない訳ないだろ……はぁ、なんで俺まで……」
 千仁の言い訳に、背中から大きなため息が聞こえてくる。政志はあきれているような、ふてくされているような声を上げていた。
「じゃあついてこなくていいじゃない」
 政志がこんな調子なので、千仁はあきれてしまう。
 思わず口にした言葉に、政志の色素のうすい瞳が、ゆらゆらと揺れていた。どうやら困っているらしい。千仁は政志をふりまわしているので、こうして目を泳がせているとき、困っているということを知っている。
「そういう訳にはいかないだろ……、写真部の合宿って言い出したのは、千仁じゃないか」
 目を泳がせていた政志は、やがてぽつりと呟いた。困ったような、途方にくれたような色だ。
「まあ、そうなんだけど」
 写真部の合宿と言い出したのは千仁なので、千仁もおもわず口ごもっていた。
 政志は暴走しかけていた千仁を見かねてついてきてくれただけなので、そんな顔をさせたくはなかったのだ。
 ふたりでこそこそと言い合っていた声は、思ったよりも大きかったらしい。壁の向こうで寮を見上げていたふたりが、ゆるりと首をめぐらせてくる。
 白いシャツを着た男の眠そうな目と、隣に並ぶ眼鏡の男と、千仁たちの目がぱっちりと合ってしまった。
「あ」
「あ」
「……あ」
「え?」
 どこか間抜けな声が四人分、潮の香り漂う空気にのっていく。四人は誰もが口を利かず、しばらく沈黙したままだった。
 やがて、沈黙を破ったのは、眼鏡をかけた男――諸泉眞二が深くついたため息だった。
 諸泉はいつも先生らしくワイシャツを着ているが、今日はラフに紺色のポロシャツを着ている。癖で跳ねている黒髪が風にゆれて、眼鏡のフレームにかかっていた。
「とりあえず、何でここにいるのってところから聞くべきだな」
 柔らかな響きの声は、あきらめに彩られていた。どうやら怒ってはいないらしい。怒られるのではないかと思っていた千仁は、おもわず安堵の息をついていた。
「おい、ほっとしてないで、なんでここにいるのかってところを説明してくれないと」
 千仁が安堵したことは、しっかり伝わっているらしい。諸泉の隣に並ぶもうひとりの男、田波那智が、どこかおかしそうに唇をゆがめながら問いかけてきた。
 いつかは見つかると思っていたが、いざ説明するとなると尻込みしてしまうものだ。けれども、いつまでも黙ってはいられない。
 千仁は意を決するべく、ぐっと息をのみこんだ。
「先生と那智さん、終業式の日に学寮のこと、話してましたよね」
 千仁は説明しながら、終業式のときに見たふたりの背中を思い出していた。
 千仁の言葉に、ふたりがたちまち渋い顔になる。見られたのか、という後ろめたさがありそうな表情だ。
「お前、あれを……」
 諸泉が苦い顔のまま、ゆっくりと口をひらいたとき、不意に澱んだ空気がゆるやかに動いた気がした。
 千仁が見上げる空は、夏独特の深い青空だ。遮るものひとつない空からは、燦々と強い陽の光がふりそそいでいる。
 青い空。雲ひとつない空が、どろりと動いたようだった。
 暑さによる幻なのかと思い、瞬きをしてみる。だが瞬きをしても、空が動いているさまは変わらなかった。
 正確には、諸泉たちの背に、半透明のなにかが浮かんでいるようだ。よく見ると背びれがあり、尾びれが見える。大きさは、千仁より少し大きいぐらいだろうか。
 半透明の何かが、不意に輪郭をつよくかたどっていた。
 半透明ながらも、存在がはっきりとしてくると、それが魚であることがわかる。マグロにも似た、大きな魚だ。その魚の黒目が、ぎょろりと千仁を見るものだから、驚きに肩をふるわせていた。
「ヒッ……」
 ゆらゆらと泳いでいた半透明の魚が、千仁へと向きを変える。千仁は息をのんでいた。
 二、三歩うしろに下がったところで、政志の手にぶつかってしまう。
「っごめ……」
 ふりかえると、政志も空を見上げているようだった。千仁と同じものを見ているらしい。
 千仁たちの態度が変わったからか、諸泉たちも背後をふりかえっている。その間にも半透明の魚はこちらへと泳いでくるようだった。
 半透明の魚を見たらしい諸泉が、勢いよく振り返って声を張り上げた。
「その魚に触るなっ!」
 ふだんから、穏やかな態度を崩さない諸泉が、焦ったように声を上げるのは珍しい。諸泉はこの魚について知っているのだろうか。
 だが、魚は勢いをつけて迫ってきている。千仁が逃げるように数歩動いても、ぴたりと照準を合わせているのか、ついてくるのだ。
 これからどう逃げろというのだろうか。
「こっちに来い! はやく!」
 半透明の魚は、諸泉たちには目もくれていないようだった。狙われているのは、千仁たちなのだろうか。
「はやくって言われたって……!」
 怒るような諸泉の声。千仁は小走りで魚を避けようとするが、すぐに間近でぐん、と空気が動いたような気がする。
 ちらりと横を見たときには、魚の顎が目前にあった。
「……っ!」
 半透明の魚が、千仁の頭をすり抜けるように、通り抜けていく。
 視界が水中にいるかのように揺らぎ、ぼんやりと朧なものに変わっていく。
 瞬間、頭を鈍器でなぐられたかのような衝撃がはしる。暗転する視界。身体から力が抜けていくのを感じるが、どうしようもできない。

 これが、あの噂の怪奇現象、なのだろうか。政志は平気なのだろうか。
 意識が薄れていくなか、誰かに名前を呼ばれている気がした。

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