赤錆びた桜 冒頭より

 薄暗くせまい路地の向こうがわから、足音がいくつも聞こえてくる。
 咲衣は建ち並ぶ建物の壁にからだを貼りつけるように立ちながら、耳をそばだてていた。居酒屋の裏側なのだろう、咲衣のよこにはビールの空き瓶がいれられたケースがならんでいる。この場所はネオンが輝くおもてとはちがい、夜の闇に路地ごと沈んでしまいそうな暗さだった。
 目の前には電気が消えた部屋の窓があり、咲衣の顔が鏡のように反射してうつっていた。ふわりと巻かれた肩までの栗色の髪に、色素の薄い瞳、そして厚い唇の女が無表情で立っている。
「どこにいった」
「こっちか」
 すこしはなれたところから、男たちがささやきあう声が聞こえてくる。もうすこしだ。咲衣は緊張をときほぐすかのように、息を吐いた。冬の夜は芯から冷えているせいで、吐息は白くかすんで、闇に消える。
 足音が咲衣のすぐそばまでせまってきていた。咲衣はすっと息を吸うと、足音が聞こえてくる道へと踊り出る。
「わっ……」
 咲衣が立っていた路地と男たちの足音が響いていた路地が交差する十字路。飛び出た咲衣の目に、ふたりの男がうつった。
 咲衣は即座に、近くにいた男に飛びかかった。咲衣をみて腰を落とし、構えの姿勢をとった男の懐にためらいなく入りこむ。
 懐に入りこむと同時に、腰にさした警棒をとりだして男の腹に叩き込んだ。
「ぐっ……!」
 男は苦悶の声をあげ、前のめりに倒れ込んでくる。咲衣はすばやくうしろに下がり、もうひとりの男へ身体を向けた。同じとき、もうひとりの男が当て身を食らわせようと突っ込んでくる。咲衣は横に身体をずらしてよけながら腕をとり、肩に背負うようにして道路に投げ飛ばした。うめいている男に警棒を叩き込み、意識を落とす。
 路地が静まりかえる。聞こえてくるのは、表から流れてくる喧噪だけだ。もう誰もいないことを知って、咲衣は身体の力を抜こうとした。
 だが。す、と音もなく咲衣のすぐ近く、耳に息がかかるくらいの距離に男があらわれた。
「っ……!」
 突然のことに、咲衣は息をのんだ。間合いを取ろうとするが、その前に腹に強烈な一撃を食らう。
「がっ、は……!」
 咲衣は耐えきれず、道路に転がった。誰もいないと思ったのに、まだ残っていたのか。ぐっと歯をくいしばりながら、起きあがろうとする。
 そのとき、転がった咲衣のすぐ横を誰かがすっと音もなく飛ぶように駆けていった。人間離れした速さであらわれた誰かは、咲衣をおそった男に向かっていた。咲衣がまたたきをする間に、男を地にしずめてしまう。
 ひょろりとした長身にすこし薄く、頼りない背中。黒い髪がうごく度にさらさらと揺れている。
「敦貴様。先に帰っていてくださいと言ったでしょう」
 気色ばんだ咲衣に、振りかえった青年、敦貴は美しい面に困ったような表情をうかべた。
「いや、でも俺は普通の人間じゃないから平気だし。咲衣をほうっておけないよ」
「それじゃあ、わたしが護衛している意味がないじゃないですか」
「俺は平気なんだけど、みんな心配症だよなぁ……」
「それはそうですよ。今まさにおそわれているじゃないですか」
 敦貴は困った表情のまま、近づいてくる。一瞬、彼の目が虹色の光を帯びて、すぐに黒い目にもどる。
 敦貴は普通の人間ではない。夜の闇のなかで本性をみせる、俗に言う吸血鬼というものだ。血を吸って生き、人よりもはるかに優れた身体能力を持っている。
 近づいてきた敦貴は、手をさしのべてきた。
「ところで、いつになったら敬語やめてくれるの。そんなに歳、変わらないでしょ」
「そんなこと言われてもいつもこうですし……変なひとですね」
 吸血鬼は、咲衣のような普通の人間を見下すことが多い。こんなことを言われるのも、地面に転がっている咲衣に手をさしのべてくることもはじめてだった。はじめてのことに、とまどいを隠せない。
「それは研究所のやつらが変なんだよ。すこし遺伝子的に違うだけで根本は同じじゃない」
 敦貴はやわらかく笑う。彼の手をつかんで立ち上がりながら、罪悪感がわき起こってくるのを感じていた。
 彼はやさしい鬼だ。今だれかにおそわれたのも、敦貴が原因だろうと思っているにちがいない。
 本当は、咲衣が原因かもしれないのだ。服の下に隠しながら持っている銃の存在を否応なしに感じてしまう。
 咲衣は、このひとを殺さなければならない。
 咲衣の本当の仕事は敦貴の護衛ではなく、敦貴の暗殺だった。

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