「カット!」
 撮影現場に監督の鋭い声が響いた。その言葉ひとつで、ぴんと張りつめていたスタジオの雰囲気がふっとほどける。
 それぞれの役を演じていた役者達も、ひとつ間を置いて役から表情が抜けていくようだ。
 静寂な空間がほどけて、スタッフ達が動きだしたり、指示を出す音で満ちていくスタジオ。
 スタジオの中央部にはセットが組まれていた。セットは石造りの部屋の一部だ。古びた石の壁、埃をかぶった本棚、古い装飾をされた木の椅子。
 急に動き出した空間で、カイン・ファウストはその場に立ち尽くしていた。頭の中は真っ白になっていて、言葉さえも浮かんでこない。
「……イン、カイン?」
 目の前でひらひらと手を振られて、ようやく我に返る。気が付くとフレデリック・ハルフォードが困ったようにカインの前で手をひらひらと振っていた。彼の短い灰色の髪がふわりと揺れている。彼の目は、役の人を馬鹿にして楽しんでいたり、人を見下しているようなものではないことに、カインの気持ちが現実に戻ってくる。
「あ……」
「大丈夫?」
 心配そうにフレデリックが問いかけてくるのに、何とか頷いた。ゆっくりとセットから歩いて出る。己へのいらだちまぎれに髪に触れると、ひとつに結んでいる長い髪の端が、視界に入った。
 カイン達が撮影に取り組んでいるのは、「楽園の子供達」という作品だ。
 楽園の子供達は、崩壊した魔法の学園で生きる子供達のファンタジー作品だ。学園が前に起きた学生達の反乱によって学園の機能が崩壊し、学園内に生徒達は閉じこめられている。学園には様々な真実が隠されていて、真実を知る生徒達と知らない生徒達の駆け引きが重要なシーンとして描かれている作品だ。
 楽園の子供達は四つの章に分けて作られており、カインはその中で水の魔法使い達をメインとしたセイレーンの章の主人公を演じているところだった。
 カインがセットから出た先に、監督が仁王立ちで立っていた。少しふくよかな体型に優しそうな顔立ちと見た目は優しそうなのだが、新進気鋭の名の通り、優しそうな外見から出てくる言葉はなかなかに鋭いものがある。
 監督は眉をつり上げていて、怒っている様子だった。カインは体がこわばり、またその場から動けなくなってしまいそうになってしまう。
「またかあ。ちょっと大丈夫? しっかりしてくれよ」
「すいません……」
 怒りの気配をまとう監督を前に、カインはうなだれるしかない。すでに同じシーンを何度も間違えてしまっているので、怒られても仕方無いのだ。
「まあいいや。ちょっと別のシーン撮って、休憩したら再開するよ。名俳優の息子なんだからさ、それくらいはしっかりやってくれよ?」
「はい……」
 カインはまた監督に謝った。それでようやく監督も溜飲を下げてくれたので、キャスト陣が休憩しているスタジオの片隅へと向かう。
 スタジオの片隅には既に先客がいた。アレン・トライザムとシエラ・セレニティだ。二人とも今実力をめきめき付けている俳優である。今回はフェニックスの章の主人公に二人は抜擢されていた。特にシエラは全ての章を通して、重要な人物として出てくるのだ。
 スタジオのどこかに置かれていた椅子に二人は座っていたようだった。次は出番なので、二人とも立ち上がっている。
 カインが近づいていくと、二人の視線がすっとこちらを向いた。シエラの涼やかな目に、美しい金髪がゆるやかなウエーブを作っている。カインも黒髪に涼やかな、むしろ鋭い目つきだ。二人とも顔が綺麗なので、立っているだけで絵になるようだった。
 シエラの綺麗な眼差しが、きつくカインを捉えた。
「また間違えたんですか? 今日詰まってきてるんだからしっかりしてくださいよ」
「ごめん……」
 シエラのひとことは容赦が無かった。だが返す言葉もなく、カインはただ謝るしかない。
 シエラはきつく睨みつけた後、ふんと顔を逸らしてその場から立ち去る。その後ろから、アレンがわずかに眉を上げて、その場から立ち去っていった。
 今度はアレンとシエラ、二人のシーンを撮るのだ。
 二人が手直しをされているセットの中に入っていく。カインに怒っていたシエラも、演技のスイッチを入れるとすっと「シエラ」のどこか神秘的な表情に変わるところが、さすが実力派の女優といったところだろうか。
 ぼんやりと流れを確認している二人がいるセットを眺めているカインの前に、コーヒーの入ったカップが差し出された。顔を上げると、フレデリックが微笑みながらコーヒーを差し出してくれていた。
 フレデリックは、「カイン」が属するグループのリーダーでありながら、カインと敵対するという難しい役を演じている。
「ありがとう」
 カインはそっとカップを受け取った。フレデリックの優しさに強ばっていた心がわずかにほころぶのが分かる。
「どういたしまして」
 フレデリックは小首を傾げて言いながら、椅子に腰掛けた。カインも隣の椅子に腰掛ける。
「ごめんね、何度も間違えちゃって」
「いや、しょうがないですよ。それに……」
 フレデリックはカインの言葉に首を横に振り、コーヒーを口に含んだ。彼の目がセットへと向けられる。
「俺も、まだ悩んでいるところがあるので、撮り直しながら振り返ることができて良かったのかもしれません」
 彼はセットをじっと見つめていた。その目には苦悩が混ざっているのが見て取れる。
「そうか……そうだよな……この役は難しいな」
「……ええ」
 楽園の子供達という作品は、役者の名前をそのままキャラクターの名前にするという、少し風変わりな作品だった。
 それでも役との性格は全く違う。フレデリックは「フレデリック」という独特な役を掴むのに苦労しているようだった。
 楽園の子供達のフレデリックは、幾重にもねじ曲がった性格を心の中に持っている難しい役だ。
 出てくる役の皆がどこか歪んだ性質を持っているのだが、フレデリックの場合はいくつも重なっているのが厄介だった。カインも、もしフレデリック役を演じることになったら、難しいだろうなと思うのだ。
「何かコツとかってありますか? 役を掴むための」
 フレデリックは不安そうな声音だった。彼は今までモデル業を主に活動していたのだが、今回のオーディションをきっかけに、本格的に俳優に挑むことにした人でもある。今までもちょっとした役は演じたことがあるらしいが、難しい役をメインで据えて演じるのは初めてとの事だっただろうか。
「コツか……まあ役を掴むにも、色々なタイプがあるからなあ」
 カインはどう答えるべきか、少し悩みつつコーヒーを啜った。
「スタート!」
 スタジオ内に監督の声が響きわたる。アレンとシエラが動き出した。シエラがアレンに魔物討伐を押しつけようとするシーンだ。
 遠目に見ても、完全に二人は別の人格になっていた。アレンが大きくため息をつき、シエラは全く気にもしていない様子で、楽園の子供達の重要な台詞をうたう。
「どうして私達には羽がないのかしら。私達は鳥籠の中に閉じこめられているのに」
「カット!」
 また監督の言葉が響いた。二人の演技がぴたりと止まる。二人の顔つきが、瞬時にいつもの二人へと戻っていった。
 セットの中に入っていた二人が、映像をチェックするためにセットから出ようとしていた。
 だがセットから出る中、シエラはアレンに掴みかからんばかりの勢いで近づいていっていた。
「ちょっと! どういうこと?」
 シエラに掴みかからんばかりの勢いで迫られ、アレンは面倒そうに振り返った。
「何がだよ」
「さっきの演技のことよ。リハの通りだともっと静かに演じる予定じゃなかったの?」
 シエラのよく通る声が、スタジオ中に響く。また始まった、とカインはコーヒーを啜りながらセットの中の二人にこっそりため息をついた。
 スタッフも、初めて二人のぶつかり合いを見たときは驚きでスタジオが凍り付いたものだが、今は慣れたものである。二人が叫んでいるスタジオでは、スタッフが気にした様子もなく次の準備を進めているようだった。
 下手に止めるとスタッフに意見を求めるようになり、余計収束するまで時間が掛かってしまうので、誰も口を出さないようになったのだ。
 フレデリックがコーヒーを飲み干しながら、感心したように声を上げた。
「毎度よくやりますねー」
「本当にね」
「撮影現場って、毎回こんな感じなんですか?」
「……いや……どうだろうね……」
 カインは未だ言葉のつかみ合いを続ける二人を眺めながら、苦笑した。遠くでは、未だにアレンとシエラが何かを言い合っている。
 カインが今までいた現場では、演技の方針でぶつかることはあるものの、ここまで白熱した争いを見ることは少ないようにも思えた。
「あの二人だから、ぶつかるのかもね」
 アレンもシエラも、実力派の新人俳優として、注目されている人物だ。名前だけでなく、実際に実力もあり、さらに年が近いこともあってぶつかり合うのだろう。
 カインが苦笑したまま肩を竦めてみせると、フレデリックも困ったように笑った。
「ちょっと、外行ってきます」
 次のシーンを撮るまでにはまだ時間がありそうだったので、フレデリックはよろよろと立ち上がると外へと出て行く。カインもそれを見送りながら、ため息をつく。
 今回の映画は、誰もが役を掴むのに苦労しているようだ。カインもまだまだ「カイン」の芯を捉えて演じるのは時間が掛かりそうで、きっちり向き合わないとならないだろう。そんなことを考えながらふらりとスタジオを見回した。
 このスタジオは、昔から撮影で使われている歴史あるスタジオだ。他のスタジオに比べれば設備は古いが、壁にこっそり有名俳優の落書きがあったりして、カインはそれほど嫌いではないのだ。
 歴史があるということは、過去にカインの父もこのスタジオを使っていたということだろうか。カインの父は名の残る名俳優だった。カインもことあるごとに父の名前を出され、比較されるが、実際に父の演技をこの目で見たことはない。カインが幼い頃に亡くなってしまったのだ。
 今、スタジオにも父がいたという名残を見つけることはできない。
 そう思っていたカインの目に、ふと気になるものが映った。